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~64艘の渡し舟をつないだ橋~
富山県で最大の河川である神通川は、富山平野の背後にそびえる3,000m級の山々に水源を持ち、そこから一気に富山湾まで流れ込むとても流れの速い川です。
さらに春先ともなれば、大量の雪解け水で増水し、川幅は洪水のように広がり、橋の掛けにくい川でした。
「神通川 舟橋の図」 松浦守美(1824~1886)
そんな神通川に「舟渡し」が設置されたのは、富山城が築城された天文年間とされています。
城主 佐々成政(さっさなりまさ)も、五艘の舟を設けて「舟渡し」の便宜をはかり船賃を徴収していました。
神通川の近くには「五艘(ごそう)」という地名がありますが、この「五艘の渡し舟」に由来すると言われています。
この「舟渡し」を止めて、「舟橋」に変えたのは前田利長が
富山城下町を開いた慶長10年(1605年)の頃とされています。
始めは32艘の舟を並べて、板を置いただけの舟橋でしたが、その後、規模が拡大され、52艘の舟を太綱で繋ぎ、その上に木の板を3枚づつ並べ人を通らせました。
その後、太綱は激しい流水により鉄鎖2条になり舟も64艘になりましたが、橋から落ちて亡くなる人が絶えず、板は5枚に、さらに7枚と増やされていきました。
<明治以前に描かれたもの 対岸には富山城>
舟橋を渡る多くの人々、川で漁をする人達、富山城下の繁栄の様子が描かれています。
後ろは立山連峰。
北陸道の陸上輸送と神通川の河川輸送の接点でもあり、物と人の往来で賑わいましたが、近代化に伴う交通量の増大、架橋土木技術の進歩等から、明治15年(1882年)「木橋」に架け替えられ、舟橋はその姿を消すこととなりました。
現在もその名残りとして残る舟橋北町の常夜灯(写真左)と七軒町の常夜灯(写真右)の間が、舟橋がかかっていた場所であり、2つの常夜灯の間は約200mほどありますが、これが昔の神通川の川幅であったのです。
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