富山ってこんなところ

荒城の月 ~滝廉太郎と富山城~

♪春高楼の花の宴 めぐる盃影さして
千代の松が枝分け出でし 昔の光今いづこ♪

[天守閣の下で、春になると花見の宴が開かれ、主君・家臣が入り乱れて
「ご返杯」とばかりに回し飲み…その盃には美しい月が映り込む。
 しかし、今は永年の松が枝を張るのみ…その枝を分けて昔の面影を
 探すけれど、城は荒廃し、かっての栄華は今どこに行ってしまったのやら…]

物哀しくも美しいメロディと、見事にマッチした哀愁をそそる歌詞はいつ聞いても心に響く名曲です。

富山城は1543年に神保長職によって築城されました。現在の富山県富山市本丸にあり、北陸街道(現国道8号線)と飛騨道(現国道41号線)が交わる交通の要所に位置し、かっては五層の天守を誇りました。

富山城は謙信をはじめ多くの戦国武将が城の奪い合いを展開した城でもあります。神通川の流れを城の防御に利用したため、水に浮いたように見え、「浮城」の異名をとりました。当時の神通川は富山城の辺りで東に大きく蛇行しており、その南岸に富山城は築かれました。

ところで、富山城は滝廉太郎の「荒城の月」の着想の元になった城の一つと言われています。

滝廉太郎と言えば、明治時代の著名な作曲家で、日本の新しい音楽のさきがけといわれました。わずか23歳10カ月という短い人生でしたが、父の転勤に伴い、小学校1年から3年生までの約2年間を富山で過ごし、旧富山城内にあった小学校(現在の富山大学教育学部附属小学校)に通っていました。

滝廉太郎が通っていたころの富山城は廃藩置県、廃仏毀釈の中で解体・荒廃が進んだ状態でした。


<富山城>

「荒城の月」の清らかで寂しげな旋律が、今も昔の面影を残す富山城祉の石垣越しに見る月とぴったりマッチするのは、廉太郎の脳裏にも同じ光景があったからかもしれません。

特有の敏感さで富山の自然の美しさと哀愁のこもった富山城の歴史を感じ取り、後に素晴らしい旋律として表現したと言え、富山の風土が滝廉太郎の感性を育んだと言えるのかもしれません。

旧富山城があった場所には、歌碑と滝廉太郎の像があり、富山城祉公園の傍らを流れる桜の名所「松川」に就航している遊覧船では「荒城の月」の琴の音が流れています。

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